昭和54年05月10日 月次祭



 皆は楽になりたい、楽になりたいというて楽の先取りをする。苦労の言うならば、修行の先取りをさせてもらえ。先々安心の大みかげを頂く為にも、苦労の先々をせよと言う事を書いておられます。話ておられます。教祖様は、常日頃の信心が大事だと。さぁ何かお願いをせねばならない事が起こったから、修行をするというのでは、おかげは受けられても本当な信心は頂かれないと言う方に、言っておられます。とっても一つ楽の楽の先取りではなくて、苦労の先取りをさせて頂く。修行をさせて頂く。
 その修行が有難くなる。その修行が楽しゅうなる。自分の身に付いて行く信心が有り難い。先ほど今度学院に参ります田中さんがお話をしておりました。私は耳が遠いいから良く聞こえませんけれど、一番最後のところだけ聞こえたんですけれども、いわゆる真の信心が頂きたいとい言っております。ところがなかなか真の信心が頂きたい。というのではなくて、もう目の前のおかげが頂きたい。今にも楽にして頂きたい。
 という人が多いのです、これではね繰り返し繰り返し、一生おかげを頂き続けたところで対した事はない。それだからと言うて安心が生まれる。言うならば安心のおかげ安心の徳こそあの世にも持っていかれ、この世にも残して置かれるものですから、どうでもいわゆる信心が分かりたい、信心を頂きたいと信心は頂きたい。そこでなら信心が頂けれるようになる、信心が分かってくるとどう言う事になるかと言うと。これは先日私のあの椛目におります妹が頂いたんです。
 今度の合楽だよりの「親先生の御教え」という所に出ております。信心が分かると言う事は、豊かな心になって行く事だと、自分の心が豊かになって行く、信心がどんなに詳しくなっても、腹が立つ取り越し苦労が多い、ちょっとした事が憎い可愛いと言った様な事になって来る。これでは信心が頂けておるとは言えない、信心が分かって行っておるとは言えない。信心が段々身に付いて行くと言う事は心が次第に、豊かに大きくなっていく事が信心が分かって来る。
 信心が分かるという事は言うならば、信神様を信ずる心がいよいよ募ってくる。真心がいよいよ熱うなってくる。はぁこれが神心でもあろうか、と自分で自分の心を合掌したいような心が育ってくる。それが楽しいのでありそれが有り難いのである。一切が神愛と言う事が段々実感として分かってくる。ですから言うならば腹を立てる必要もなからなければ、取り越し苦労をする必要もない事になって来る。そういう信心を目指す事が言うならば、信心の稽古をさせて頂くと言う事である。
 今日4時の御祈念を研修終って4時の御祈念を、何時もさせて貰います4時の御祈念の後に頂いた事でございましたが、今の方達私皆に聞きましたけど知らない。あしなかと言う草履があります御百姓さんが履きます。今のお百姓さんはあんなもう履きやしません、昔のお百姓さんは草履が丁度こりゃ半分切れとるかのようにね、短いこんな草履を履く。踵だけは出ておるあれが田んぼに出ていくのにどう言う事でしょうかね。
 あれがその普通の履く、あの大きな草履のように、こう足ピッタリ合うような草履であったら、もうそれこそ後打ちがする。後ろにこう跳ね上がる泥が。言うならばあしなか草履を履いて田んぼに出たものです。今はもう三つ足袋なんかでしょうけれどもね。私共のまだ小学校に通います頃は、農家の子供さん達はあしなか草履をね、やっぱ履いて行きよりました。お百姓さんが田んぼに出るときに履くんです。あしなか草履。
 お互いが土の信心をさせて頂くという、例えばお百姓さんをはまってするならば、いうなら、かとが汚れると言ったようなくらいな事で、は本当の百姓は出来ません。信心修行もそうです。もうあれも足いこれも足ろうたら、私達いよいよ信心をさせてもらうと言ったような事で信心は出来ません。もう足らないずくめの中に真の信心というものが分かって行くんです。
 今日私4時の御祈念を下がる時に頂きました事は、丁度あの傘のね、傘がばらばらになって、そして柄だけになって、その傘の柄を杖に着いておるところを頂いた。ここでは傘のお知らせを頂きますと安心のおかげと頂く。傘一本持っておけばどんなに曇って来ても、あわてんですむでしょう。安心しておれるでしょう。よし降って来ても開けば良いでしょう。ですから傘のお知らせは安心と神様はお知らせ下さってある。その安心の傘がばらばらになって、そして傘の柄をこう着いておるところ。
 どういう事だと思いますか。それこそ傘の柄にすがって、登らねばならない。傘の柄に縋って道を歩かなければならない。何時も神様に言うならばごんぐりをお願いをしておる事。何時も願わなければならない事ばかり。自分の身内自分の身辺の事ばっかり。そういう事が何時も願いの信心。願いの信心と言われるから、自分の事だけ願えと言うのじゃぁない。本当の願いの信心というのは、それこそ自分以外の事。自分の言うならば周辺が助かっていくと言う事。
 まぁ大きく言うならば天下国家の事が祈れれる、その事が祈るというかもう縋らずにはおれないと言う信心が、言うならば願いの信心です。何時も願いの信心が最高だと最近ここではおも言われます。親だから願わずにおれんのだと。けどもそれがね自分の身の事、自分の身内の事だけを何時もすがり頼まなければならない事が、こう続いていくと言う事ではです、いうならば本当の事ではない。もう自分の事くらいは安心しておれる、神様の御守護の中にある私であり私一家であるとね。
 御取次ぎを頂いてもその事は言うならばどうぞと言わなくても、同じ願うならばもっと大きな事が切実に願われると言ったような信心を、私は願いの信心が最高だと言うのはそこだとこう思う。私は心の中に安らぎがあり安心があり、何時も心の中に傘を持っておればで、そう色々あの言うならばお願いする事は無いと思う。自分の身のうち。けども世の中をこうやって見渡して見ると、難儀な事ばっかり。自分の周辺を見回して見る、信心の無い人達の上を見てみると、はらはらするような事ばっかり。
 願わずにはおられんすがらずにはおられん、と言うように段々信心が育っていかなければいけない。これは信心にもういよいよ段階をおうてと言う、言われますから、小学校の時代もありゃまだ本当に幼稚園、いうような場合もあります。高校生大学生と言う様な信心進んでまいります。だからその時点時点で頂く所の心の安らぎの範囲というものは、違うのです。私は過去自分の信心を思うて見てもそうです。その時その時なりに言うならばいっぱしの信心をさせて頂く。
 今日も結構な修行させて頂いて有り難いこれが。所が今日はあぁでなからにゃいかん、こういう修行しようと思いよったら又失敗した。と言う様な時に心の安らぎが破れて来るんです。言うならばもうそれこそめちゃめちゃに、傘が破れてしもうて言うならえ、柄だけが残っとります、その柄に縋って願わなければならない様な事ばっかりが起こって来るわけです。起こって来るじゃなくてそうしなければおれなくなって来る。
 自分の事だけに一生懸命血道を上げた信心から、自分の心の中に安らぎが頂けれる、安心が頂けれる。それが大安心ば目指させて頂いての信心修行と言う様な事になってこなきゃならん。そのために「修行の先取りをせよ」とこう泉尾の先生は言われる訳です。それを合楽では「楽はせんぞという気になれ」とこうある。楽はさせて頂くものぞと言う事。これは非常に素晴らしい事です。せっかく本気で修行信心させてもらいますとね、やはり修行は付き物ですから、まぁ自分で色々と工夫致します。
 もう自分から求めてお芝居んでん行こうとは思わん。自分から求めていうならば温泉にどん行こうと思わん。とても行こうとは思わん。そういう心が本当のものになって来る。ところがお芝居の、いうなら観劇の招待券を頂いた。どうでもお付き合いにでも温泉にいかなきゃならないような、これはいわば許されての温泉入りであり観劇である。ですからもうひとしおに有り難い。
 自分が工面して何時の何月何日はどこに行こう、あそこに遊びに行こうと言う様な言うなら心を除いて、神様からさせて頂く楽だけを頂こうと言う事になると、神様はそれこそ微に入細に渡ってのお繰り合わせを下さって、こんなおかげを頂いてもよかろうかと思う様な、おかげの世界に住む事が出来るんです。そのためには先ず私共がね、おかげを頂かせてもろうて、いうなら修行の先取りをするような、気持ちにならなければいけません。それを例えば何かば頼まんならん、願わねばならんから修行をする。
 というのではもう遅すぎる。自分の信心がいよいよ進んで行くおかげを頂かねばならん。先日は、3、4日前の朝の御祈念でしたか。それこそ本当なものは見た事がないけれども、あんなものだろうと思うんですけれども、わら人形に五寸釘と言った様な事を申しますよね。人を呪い呪うとか呪い殺す、と言った様な時にそれこそ丑三つ時に、あのお芝居なんかで見ると頭にこう、おローソクを立てて白衣を着て、髪をこう振り乱すようにして、そして深夜にその大きな、わら人形にいわゆる五寸釘を打ち込む。
 あの一心。あの思いを持ってするならば、やっぱりそれが本当に呪い殺すと言った様な事出来ると思うです。恐ろしい事である。私共がそのわら人形に五寸釘と言う様な、恐ろしい事は思わんにしてもです、あいつがあぁ言うたりあぁした事はもう一生忘れられんと言った様な事があります。又は憎む妬むこう言う心はおかげの受けられない、お徳の受けられない心の状態ですから、憎い可愛い惜しい欲しいを取れば、楽じゃと四神様は仰っておられるように、私共はそういう心を取り除かせて頂かなければならない。
 自分の心の中に浅ましいまでのそういう心が動いておる。いうならば商売仇が憎うてたまらん。そういう中からその商売仇の事が祈れれれる。商売仇の繁盛を祈らせて頂けれる程しのゆとりが出来て参りますと、こちらの事はいうならば願わんでも頼まんでも、おかげが頂けれる世界がある。神様が喜んで下さる世界である。中々そげんにはなれんというのじゃない。信心をさせてもらや段々それが出来て来るようになる。
 そういう私は、お知らせを頂いておりましたら、ははぁこれがそのわら人形に五寸釘ち言ゅうのは、こういうものばいなと、わらで人型を作って、こんな風してで足をこうやってふんばって。そしてそれがね、私の大坪の大という字に変って行くところを頂いた。私が頭が悪いから、本当に神様が分からん、私に色んな事を分からせて下さろうとするためには、今朝から、今日は研修の時に話した事でしたけどね。もう本当に神様も骨を折れるござろうと私は思う。
 ははぁわら人形に五寸釘と言った様な、恐ろしい心が自分の心にある。その心が改められた時に、初めて大きなおかげの受け物が受けられる。おかげの受け物が出来る時だなと、私は悟らせて頂いた。皆さんが大きなおかげを頂きたいと言いながらです、心の中にはですそういう言う、ならばおかげの受けられない心の状態がうごめいておる、と言った様な事では、だからそういう心に取り組んで、私共が信心の真を現し、信心の真を頂かせて頂く稽古をさせて頂くと、何時の間にこう言う様に。
 自分の心の中に有り難い心が頂けるだろうかと、我ながら和賀心が拝めれるような心が段々出来て来るから楽しい。信心は。しかも大きいおかげが受けられるんだとね、そういう心と取り替える時に、そこにはもう大きなおかげの受けものが出来るんだと。『信心は日々の改まりが第一』と仰ってます。わら人形に五寸釘と言う様な、いうならば恐ろしい心が私共の心の中にうごめいておる。
 自分と言うものを見極め掘り下げて行くと、教えの鏡を立てて見るとはっきりそこに映ずるものは、ははぁこれではおかげは受けられないというものが映し出される。それに取り組んで私共が修行をして行く。そういう修行を修行の先取りと言うのじゃないでしょうか。何時の間にか自分の心が有り難うなって来る。自分の心が豊かになって来る。なるほど信心が分かれば分かるほど、心が豊かになって来る。信心が分かれば分かるほど、言うならば神様のおぼし召しが分かって来る。
 ご神意が分かって来る。そして私共の上に起きてくる全ての事柄が、これ一切神愛であると分からせて頂くようになる。だからおかげ。そういう泉尾の先生のお話の中に一つの事でもね喜ぶ人がある。同じ事を腹を立てる人がおる不足を言う人がある。神様の御物だから大事にせなければと、言うならば物を大切にします倹約をする人がある。無駄使いをする人がある。それはそれだけの事のようだけれども、これがつのりつのって、天地ほどの差が出来ると言うておられます。
 なるほど天と地ほどの開きが出来る。ここではそれを『人が人偏なら私は行人偏』と言う様な御教えを頂いた事がある。『人が人偏なら私は行人偏』上にちょっとこう付けるだけなんだ。人偏上に一つ付けると行と言う事。一切を言うならば神愛とし、それを修行として受けて行く信心を身に付けさせて頂かなきゃならん。まぁいよいよ思い方を変えて行くと、段々それがそう思えるようになる。これも椛目の妹が頂いた御教えだそうですが。お夢の中でその今年から幼稚園に行っております。
 そのひろ江という。それをその大きな声を出して怒りよった。そしたら勝美さんです。婿が申します事は、お母さんもうひろ江の命もあと幾日ですから、怒らんで下さいっち言う。お夢の中でビックリした。もうこの可愛い、例えば孫がですよ。もう後幾日かの命だと言うのだから、大きな声を出さんで下さい怒らんで下さい。そういう心持ちになるという事なんです。私共がです、言うならば、何時までの寿命やら分らない。明日という日が実は分らない。
 あの人が死ぬまで、根性悪い事ばっかり言うござったと、言われる様な事ではいけん。お互いの人間関係の上に置いてもです、この人がひょっとしたら、明日亡くなられるかも知れん様な人にです、こう言うえげつない事は言われん、大きな声だん出されん、というこれは言うならば心掛けであります信心の。毎日の朝の御理解終わり、親先生のあれが今日はあれが遺言だという風に頂いたら、もちっと本気で頂けにゃせんだろうか、とこう言うことになります。
 もっちっと本気ではぁ頂いときゃ良かった、と言う事になるじゃないでしょうかね。又明日は頂かれると思うから、ざっとしてあら今日ん御理解どげな御理解じゃったのと言うて忘れしますような事になって来る。これはあの人間関係の上においても、教えを頂き信心を頂くという上においても、そういう心掛けを持って、教えを頂くのであり人間関係の上にも和を求めて行く、勿論信心が分かれば分るほど豊かな心が育ってくる。一切が神愛という事になって来る。
 今日伊万里の竹内先生から電話がかかって来た。2、3日前からあぁもう前からこうお願いがしてあったけれども、いよいよもうせっぱ詰まって来たから、というので、ある市制の上での何かの何とか、何の今言いよんなさったあげんとが。(笑い)であったんです。だからどうでもこの人が、そのう当選してもらわなければ、市制の上に支障が来たす。ところがやっぱり、反市長派と言ったようなのがあってですね、そんとにかく凌ぎを削っておると言うのである。
 3、4日前参って見る時にその事の御取次ぎがございましたが、どう言う様な心掛けで、この事にお願いをしていったなら良かろうか、と言う事を言われますので、私はその方の事をお願いさせてもらいよったら、あのさんづい編の「河」という字を頂いた。三本「川」じゃない、さんづい編の「河」。それもさんづい編の、さんづいがもう点がちょっと上に打て、打ってあって。下の大きくとこう跳ね上げた所を頂いた。ちょっと点があるやら無いやら分からん。
 して下ん所を大きくこりゃやはり信心をもう一段と跳ね上げなきゃいけません。そうするとこちらの方は可と言う字になる、許可の許可の「可」と言う字ですね。そうでしょう書いてごらん。さんづいを書いてこちら、許可の「可」。ね、許すという事である。「可」がおかげになるという事である。これを力強く一心におすがりして跳ね上げる。もう言うならこれはどういう事になるか、というと、今日もその事を話してです、本当に神様が物言うて下さるように。
 私のようなぼんくらでも分るように、ご理解くださるためには、なかなか神様は骨が折れよろう、と言うて言うた事でしたけれども、点がちょっと打ったか打たんくらいに点が小さい点。と言う事は点が少ないち言う事。入る点が。だからしっかりこれば跳ね上げろと跳ね上げたら、おかげにしてあると言うお言葉でした。だからおかげにはなるでしょうけれども、これいっちょ本気で跳ね上げる信心させてもらわにゃいけませんなぁと言うて申しておりましたら、今日電話がかかって来た。
 おかげを頂いて2票差で、おかげを頂いたと。もう本当に危ない事でじゃんけんぽんせにゃん所でしたという電話でした。あれが同点だとじゃんけんポンせなんじゃろう。おかげでじゃんけんポンせんで済んだという事ですけれども、例えばならんところを成るように、上がれないところをあが、今度の選挙なんか皆そうでしたね、沢山私はお届けさせて頂いたけども、もう皆当選しました、もうそれも不思議な不思議な働きを受けならがら当選のおかげでした。
 跳ね上げた跳ね上げてください、皆様一心の願いの。可になった許された。と言う事になりましょうか。そういう意味においてのおかげを頂かせて頂きながら、私共がそういう特別のお願いをして、特別のおかげを頂かなければならない、それをお願いするとが信心だという風に思うておった時代から、その信心そのものを頂こうと言う気にならにゃいけません。今日なんか田中修行生が申しておりましたように、おかげが頂きたいと言わなかった、信心が頂きたいと。
 なら信心が頂きたいというところに、そんなら何の稽古でも同じですけれども、修行が伴うはずだと。修行にいわゆる信心に修行は付き物。言うなら修行が先行する。修行の言うなら先取りをして行く。後からおかげは付いて来るというおかげである。信心はもう楽しゅうして有り難うして、愉快にまでなって来ると言う風に、ここでは言われます。おかげを頂く信心はそんなく訳にはいかん。おかげを頂いた時には、有り難いけれどもそれはのどを通ればである。
 もうそれが過ぎたら言うならば、忘れてしまうというのがおかげである。信心を頂くというのはそうではない。信心が頂けるに従って心が豊かに大きくなって来る。今までは何時があれがと、思うておったようなあの人のおかげで、とそのあいつがと思うておったような人。言うならば富永先生じゃないですけれども、自分がこういう難儀な目におうたのはあいつのおかげだ。自分が死ぬ時には一人で死なん、あいつの頭に手斧(ちょうの)でも打ち込んでから、でなからなきゃ死なれんと言う様な思いであったのが。
 合楽にご縁を頂くようになって、あれこそが神様であったと分るようになった。十何年間合楽にご縁を頂くようになって、私がわからせて頂いたのは、この事だけ一切が神愛という事がいよいよ実証、実感を持ってです、それを感じれるようになったという事がおかげ、とこの頃神愛会の時に見えて話しておられます。それが何時の間にかそういうように、自分の心が有り難い心に変わって行くというのでなからなければ、信心が楽しいもの有り難いものになっていかないんです。
 でなかなければ言うならばあの世にも持っていける、この世にも残しておける。と言うことに成りません。けれども例えば私共はそういう状態になったら、んなら願う事もなーにもなくなってしまう、かというとそうではない。信心が分かれば分るほど、自分の心の光が灯れば灯るほど、自分の周辺の汚さが見えに見えて来る様になる。5里先も10里先も見えて来る様になる。
 大きな光になれば成程、そこには難儀な様相が一杯である。その事が願わずにおられないと言う様な信心を私は、高度な信心というのじゃなかろうかとこう思う。いよいよ信心が分かると言う事は、自分の心が豊かになっていっておる、と言う事が信心が分かっていっておるのであり、頂いておるのであります。信心が豊かになるためには、ひとつ修行の、楽の先取りではなくて、修行の先取りが出来る様な信心を頂きたいものですね。
   どうぞ。